あこがれの街だったころの銀座を振り返る
あのころ、銀座は憧れの地だった。大学1年生の春、「大きいサイズの靴を買うならここ」と大学の先輩に連れられて、ワシントン靴店に入った。大きい靴のフロアにはエレベーターで行った記憶がある。
靴のサイズは24.5cmだったけれど、幅広甲高のわたしの足に合う好みの靴を田舎の靴店で見つけることは難しかった。このフロアに並ぶ靴はすべて大きいサイズで、27cmくらいのレディースシューズもあった。さすが銀座の靴屋!と感動したものだ。
大学2年のころ、銀座1丁目にあった「つばめグリル」で働いていた。大学でドイツ語を専攻していたわたしはこのレストランをドイツ料理を出す店と思っており、ドイツ人客と知り合いになれるかもしれないという下心から、飛び込みでアルバイトの職を得たのだった。男性従業員の中に女性もアルバイトもわたしだけ。よく雇ってくれたと思う。履歴書も出さず、マネージャーの判断で即決。思い出すと恥ずかしい。
いい意味のいい加減さ、緩さがある時代だった。給仕やシルバー拭き(カトラリー磨き)をして、賄い食(パワフル和食)をいただき、結構楽しく働いていたのに、どうして辞めたのかは思い出せない。ドイツ人の客が来なかったからかもしれない。
大学3年の夏休みだったか、高校の同級生が就職した広告代理店でアルバイトをすることになった。バイト先の会社は新橋だったけど、わたしはアパートから乗り換えなしで行ける銀座から歩いて通っていた。銀座をより身近に感じるようになった。でも、食事や買い物を楽しむにはまだまだ敷居が高かった。
就職した会社は日本橋(三越前)にあったので、仕事が終わって銀ブラしたり、同僚と銀座で飲み食いしたり、銀座は仕事帰りに遊ぶエリアに昇格していた。それでもわたしにとって銀座は、洗練された格上の街。背筋を伸ばして優雅に歩くことを強いられるような、気品の高さが漂っていた。
1990年代後半から海外の一流ブランド店が銀座に進出、その後ユニクロやH&Mなど海外で人気のファッションブランドが街を賑わし、東急ハンズ(現在はハンズ)やMUJIなどの雑貨店も銀座に店を構えた。オープン時にはかなり話題になったプランタン銀座は2016年に閉店。現在は100円ショップのダイソーやセリア、仕事着のワークマンまで銀座に集結。ショップやレストランの格もそこに集う人々も雑多で、ごった煮的な街になった。
どうして銀座の思い出を辿ろうと思ったのか。
それはこのところ、たて続けに銀座に行く用事があり、わたしが憧れた銀座が随分と変わったことを実感したから。まあ、40年+の歳月が過ぎているのだから、変わらないほうがおかしい。現在の銀座には何でもある、と喜ぶ人もいるだろう。でも、個人的にはすごく残念な気持ち。かつて背筋を伸ばされた街の空気を感じることはできない。
最近、「日本終了」とか「日本がなくなる」という言葉を目にするけれど、形は残っても「終わる」という現象はあるのだと銀座の変化を俯瞰しながら、憂鬱な気分になっている。
monthly journal / sep.2024