あのとき「つくるひと」になると決めた
27歳でフリーランスになった。仕事に不満があったわけでも、健康上の理由でもなかった。その職場に居続けることにギモンを持ち始めたのだ。居続ければ惰性で働き辞められなくなるのではないか、とか、インドに行って人生を見つめ直そう、とか、毎晩考えていた。
ひとりランチを終えて会社に戻る途中、ばったり社長に出会い「お茶でも飲もう」と誘われて、今後のことを聞かれ、悩みを打ち明けた。辞職願を出したのは、その1週間後。
フリーになるとき、決めたことがある。それは「つくるひとになる」ということだった。「つくる」には、いろいろな行為・職域が含まれる。それまで携わってきた出版や編集の仕事に限定してしまうと、きっと苦しくなるだろうと思った。でも当てのない未来に何か目標がほしくて、出てきた言葉だった。
つくるものはなんでもいいのだ。野菜でも料理でも洋服でも。文章でも絵でも。家庭でも集いの場でも。「つくるひと」の定義はひとそれぞれで、広義でとらえれば暮らすこと自体がつくることとも言える。コネも明るい未来もなかったのに、フリーランスという大海原に小船で乗り出したわたしの、言い訳であり逃げ道でもあった。
ブックアートの展示を終えて、ふと「つくるひとになる」と決めていたことを思い出した。忘れていたけど、自然とそこに向かっていた。
そういえばブックアートの作品を仕上げるときも、文章化することでやる気スイッチが入ったし、ことばを脳内に刻み込む?ことは案外、大事なことなんですね。
還暦を過ぎても学ぶことは多い。今まで体験してきたことが、ここに来てつながってきたように感じる。まっすぐでも平坦な道でもなかったけれど、人生に無駄なことはない。いろいろな人に言われたこの言葉を、ようやく受け入れることができるようになった。
そしてまたふと、「つくるひとになる」という思いは、自由に創作活動を楽しみたかったけどできなかった先祖の遺志だったのかもしれない、と思ったりも。
monthly journal / oct.2024
あこがれの街だったころの銀座を振り返る
あのころ、銀座は憧れの地だった。大学1年生の春、「大きいサイズの靴を買うならここ」と大学の先輩に連れられて、ワシントン靴店に入った。大きい靴のフロアにはエレベーターで行った記憶がある。
靴のサイズは24.5cmだったけれど、幅広甲高のわたしの足に合う好みの靴を田舎の靴店で見つけることは難しかった。このフロアに並ぶ靴はすべて大きいサイズで、27cmくらいのレディースシューズもあった。さすが銀座の靴屋!と感動したものだ。
大学2年のころ、銀座1丁目にあった「つばめグリル」で働いていた。大学でドイツ語を専攻していたわたしはこのレストランをドイツ料理を出す店と思っており、ドイツ人客と知り合いになれるかもしれないという下心から、飛び込みでアルバイトの職を得たのだった。男性従業員の中に女性もアルバイトもわたしだけ。よく雇ってくれたと思う。履歴書も出さず、マネージャーの判断で即決。思い出すと恥ずかしい。
いい意味のいい加減さ、緩さがある時代だった。給仕やシルバー拭き(カトラリー磨き)をして、賄い食(パワフル和食)をいただき、結構楽しく働いていたのに、どうして辞めたのかは思い出せない。ドイツ人の客が来なかったからかもしれない。
大学3年の夏休みだったか、高校の同級生が就職した広告代理店でアルバイトをすることになった。バイト先の会社は新橋だったけど、わたしはアパートから乗り換えなしで行ける銀座から歩いて通っていた。銀座をより身近に感じるようになった。でも、食事や買い物を楽しむにはまだまだ敷居が高かった。
就職した会社は日本橋(三越前)にあったので、仕事が終わって銀ブラしたり、同僚と銀座で飲み食いしたり、銀座は仕事帰りに遊ぶエリアに昇格していた。それでもわたしにとって銀座は、洗練された格上の街。背筋を伸ばして優雅に歩くことを強いられるような、気品の高さが漂っていた。
1990年代後半から海外の一流ブランド店が銀座に進出、その後ユニクロやH&Mなど海外で人気のファッションブランドが街を賑わし、東急ハンズ(現在はハンズ)やMUJIなどの雑貨店も銀座に店を構えた。オープン時にはかなり話題になったプランタン銀座は2016年に閉店。現在は100円ショップのダイソーやセリア、仕事着のワークマンまで銀座に集結。ショップやレストランの格もそこに集う人々も雑多で、ごった煮的な街になった。
どうして銀座の思い出を辿ろうと思ったのか。
それはこのところ、たて続けに銀座に行く用事があり、わたしが憧れた銀座が随分と変わったことを実感したから。まあ、40年+の歳月が過ぎているのだから、変わらないほうがおかしい。現在の銀座には何でもある、と喜ぶ人もいるだろう。でも、個人的にはすごく残念な気持ち。かつて背筋を伸ばされた街の空気を感じることはできない。
最近、「日本終了」とか「日本がなくなる」という言葉を目にするけれど、形は残っても「終わる」という現象はあるのだと銀座の変化を俯瞰しながら、憂鬱な気分になっている。
monthly journal / sep.2024
「ショックドクトリン」を考える
忘れていたころに図書館から連絡が来て、リクエストの理由を思い出せないまま読み始めた『堤未果のショック・ドクトリン』(幻冬舎新書)は、なかなかに衝撃的な内容だった。
「ショック・ドクトリン」とは、テロや大災害などの大惨事につけこんで、為政者や巨大資本が巧妙に進める政策手法のこと。9.11が起きたとき隣接するビルで働いていた著者は、事件後のストレスとPTSDにより仕事を辞めて帰国、しばらく情報と人との接触を断つことで自身の五感を取り戻し、再び渡米してジャーナリストになるという経歴の持ち主だ。
誰でもショッキングな事件が起きると、冷静に考えることはできなくなる。恐怖と不安で押しつぶされそうになり、安全安心を求めて「大きな声」に耳を傾ける。記憶をたどれば、3.11の後、東京にも放射能が飛んでくると言われたときや、コロナ禍の初期、最初の死者が出たというニュースが流れたときがそうだった。巨大化する不安で、自分自身の思考は停止状態のまま、情報をかき集めていた。
「危機が発生したら迅速な行動をとることが何よりも肝要であり」「現状維持の悪政に戻ってしまう前に経済改革を実行する」ことが重要と唱えたのは、シカゴ大の経済学者ミルトン・フリードマン(1976年ノーベル経済学賞を受賞)。「災害便乗型資本主義」は彼の教義がベースにあるらしい。
世界や日本で実施された(もしくは進行中の)「ショック・ドクトリン」の事例を見ていくと、何も知らずにのうのうと暮らしてきた自分が恥ずかしくなるが、東日本大震災や原発事故、コロナ禍を体験して、報道を鵜呑みにしないということは学んだ。新型コロナ政策では、行動制限や商業施設の制限、PCR検査やワクチン接種、マスク着用の半強制、コロナ薬とマイナンバーカード普及活動など、コロナが終息し(実際はわからない)、冷静になった頭で振り返ってみると、おかしいことだらけだと気がつく。
「一番大事なことは、どちらが正しいか間違っているかという善悪ではなく、「おかしい」と感じる自分の直感をキャッチする感性を持ち続け、最後まで「選択肢」を失わないこと」と著者はいう。
折しも都知事選の投票が迫っている。表向きの顔やあいまいな言説に騙されないよう、自分のなかの「違和感」を大事にしようと肝に銘じた。
monthly journal / jun.2024